井の頭池は「神田川の源流」で江戸の町の水源だった!

神田川と聞いて何をイメージするでしょうか?
年配の人はフォークの名曲『神田川』(昭和48年9月20日発売/南こうせつとかぐや姫)でしょうか?
その源流が井の頭池で、江戸時代には江戸の人の暮らしを支えました。

神田川といえばかぐや姫と答える熟年世代!

神田川は荒川水系の一級河川。井の頭の池を水源に両国橋の脇で隅田川に合流する流路延長24.6kmの河川です。
御茶ノ水駅の横を流れ、聖橋がかかるのも神田川です。
東京を流れる河川としては、荒川などの巨大リバーを除けば、最大の河川です(隅田川に合流の様子は東京都観光汽船の「隅田川ライン」に乗船すれば見学できます)。

160万枚を売り上げたとされるかぐや姫にとって最大のヒット曲となった『神田川』の舞台はその中流部。
大久保通りと神田川がクロスする末広橋のたもとの公園(中野区中央1-13-9)に『神田川』の歌碑が立っていますが、実際の歌の舞台はもっと下流。
作詞の喜多條忠(きたじょうまこと)氏の実話で、歌に登場する「横丁の風呂屋」は、新宿区西早稲田3-1-3にあった安兵衛湯。自身の早稲田大学学生時代の体験を歌詞にしたもので、相手の女性もワセジョだったとか。
  
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↑お茶の水を流れる神田川。往時は江戸城の外堀として機能しました

池の名の名付け親は徳川家光

さてさて話を神田川の源流に戻します。
井の頭恩賜公園は、大正6年に日本で最初の郊外公園として開園した公園。周囲の開発が進む以前は、自然湧水があったのですが、今では源頭部の「湧水井戸」(TOPの画像)も人工のもの。

江戸時代には井の頭池と一帯の林が幕府御用林として保護されていましたが、これは貴重な江戸の浄水源だったから。
徳川家康の命を受けた、大久保藤五郎は、当時「七井の池」と呼ばれる井の頭池に目をつけます。
江戸の町の水道を確保するために、湧き水の豊富な井の頭池に注目したのです。
当時、「七井の池」と呼ばれたのも、池周辺に湧水が7ヶ所あったから。

井之頭池と命名したのは、3代将軍徳川家光といわれています。

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↑江戸時代の井の頭の池

「お茶の水」という地名も井の頭に由来!

さらにここで、ひとつ、面白い話を。
神田川は今や超有名な東京リバーですが、実は神田川の名がついたのは、昭和40年の河川法の改正から。それ以前は、上流から神田上水(井の頭池から文京区関口の大洗堰まで)、江戸川(関口から飯田橋まで)、外堀(飯田橋から隅田川まで)と称していました。

もう少し詳しく説明すると、井の頭池を源流とする神田上水の水だけだと、江戸庶民の水道水に足りません。
そこで善福寺川と妙正寺川の水を大洗堰で合わせて水位を上げ、その勢いをかって小日向台の南麓を流れて水戸屋敷(現在の小石川後楽園)に入り、掛樋で外堀(現在の神田川)を渡って、神田や日本橋に給水されたのです。
「お茶の水」という地名も神田上水の水、つまりは井の頭湧水がお茶をたてるのに最適な水ということに由来する地名です。

井の頭の湧水がなければ、江戸の町を潤す水道も、お茶の水という地名も生まれなかったのです。
さらに水道橋という地名も神田上水掛樋(下の絵図参照)があったからの地名。
まさに井(水道)の頭(源)が井の頭なのです。
水道橋と、吉祥寺にも切っても切れぬ関係があるのですが、この話は次回・・・。

ということで、井の頭公園を歩く機会があるなら、ぜひぜひ、「神田川源流」の確認を!

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↑掛樋で外堀(現在の神田川)を渡っている様子がこちら

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↑神田川の源流部。井の頭池を流れ出ると、すぐに井の頭線をくぐる
 

 
   
 

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酒井 正人

『マップルマガジン』やガイドブックのシリーズを立ち上げたり、2005年開催の『愛・地球博』の公式ガイドブックを制作。カーナビや宿泊サイトにも旅行情報を配信。
現在、一般社団法人プレスマンユニオン理事。ニッポン旅マガジンプロデューサー。